ふたつほど湯呑しずめて秋の水
秋になると、野外や器の中、台所など、どこに存在する水も、静かに澄み渡る気配を持つ。「秋の水」は、そんな水の様子を表す。秋の季語。
高く澄んだ空や、爽やかな風、穏やかな陽射し。
そんなものを映し込むせいだろうか。
秋の水は、どこに存在するものも、清らかに澄みきって感じられる。
時にどこまでも深く、時に光を反射しながらきらめくように。
当然の話だが、水は、置かれた場所に文句を言わない。
「こんな場所では充分に輝けない!」と、声を荒らげることはない。
殊に、秋の水は、自らの存在する場所で穏やかに澄んだ美しさを放つ。
どんな場所に置かれていたとしても——それにこだわることなく、自らをひたすら澄み渡らせ、輝かせる。
その周囲までも清め、人の心を惹き付けるほどに。
今いる場所に不満を漏らす。
それは簡単だ。
でも、仮に新たな場所へ移ることができたとして——そこでなら、澄みきった自分が得られるのだろうか?
それは分からない。
自分の今いる場所や置かれた状況に不満を並べても、多分望むものは手に入らない。
そうではなく——
自分の存在する場所で、自分なりに深く澄み渡る。
きっと、それだけでいいのだと思う。
秋の水のように。