掬い上げるもの

日々の中から掬い上げたさまざまな思いを綴る、俳句&エッセイ。 一話があっという間の短さです。 どこから読んでも、好きなとこだけついばんでもよし。 よろしければ、お茶やコーヒー片手に気楽にお付き合いくださいませ。 マイナスイオンを深呼吸したい方も、ぜひお立ち寄りください♪

絶対と相対

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 昨日より今日なほ深し秋の空


 秋の青空は、高く大らかに澄み渡る。秋の季語。

 

 

 10年前と今を、比較してみる。
 例えば、自分の顔や体つき。
 結構変わったな…そう思う人がほとんどではないだろうか。

 考え方もそうだ。
 10年の間には、誰もが多くのことを経験する。そして、その経験に基づき、ものの捉え方や考え方は少しずつ変わっていく。


 だが——
 これがまちがいなく「自己」だと言い切れる自分は、その中のどこかに見つかるだろうか。


 表面的にも、内面的にも、私たちは時間とともにどんどん変化していく。——留まることなく。
 そんな時間の流れの中で、「確実」とか「絶対」とかいう表現のできる瞬間を探すのは、とても難しい。
 変わっていく心と身体。
「確実」や「絶対」だと思いたい瞬間があったとしても——その状態を長く留めておくことは、誰にもできない。

 結局、自分自身は、確実で絶対的な「自己」というものを持ち得ない存在だ、ということに気づく。


 少し前に、このエッセイの中で、アインシュタインの言った「相対性」について触れた。
 楽しい時は、あっという間。苦しい時は、一秒すらひどく長く感じる。その感覚こそが、「時間」だ。
 時間とは、時計の針の動きではなく、自分自身の感じるその長さこそが真実であり、それが「相対性」だ——アインシュタインはそう説いた。


 この世界には、結局、「絶対」というものは存在しないのかもしれない。
あるのは「相対」だけ——10年前と現在、昨日と今日、さっきと今、というように、「状態を比較する」ということだけが、かろうじて意味を持つことなのかもしれない。
 私たちが存在しているこの「時間」でさえ、こんなにも形の掴めないものなのだから。


 自分の追い求める「絶対」も、「確実」も、結局自分の脳の思い込みでしかないのだとしたら——それにこだわり、必死にしがみつく必要もないだろう。

 

 そんな不確かな物事にこだわるよりも——
 昨日より、今日の秋空は一層深く、高く、優しい。
 空を見上げてそんなことを思えたなら、それでもう充分幸せなのかもしれない。